2026年9月1日(火)
早いもので、もう9月ですね。
今年もあと4ヶ月、時間の進みが早いです。
土・日曜日に放送された日テレの24時間テレビを見ました。
俳優・星野真里さんの走りを見て、心打たれるものがありました。
苦しい時にでも笑顔😀でいられ続けられることは、素晴らしいと思いました。
テレビカメラで走りを、声援への対応が撮られているとはいえ、普段から笑顔でいなければ、あそこまで出来ないと思いました。
それが自然に出ていたんでしょうね。
凄いですね!自分も普段から、笑顔でいる事を忘れないようにと反省している所です。
笑顔😀がキーワードの会社だけに!常に笑顔でいたいものです。
公表している、していないに関わらず、芸能人の家族の方の中には、障害者の方がいらっしゃいます。
その事を公表することは勇気がいる事ですね。
障害や病気で差別されることのない社会・地域であってほしい。
障害や病気が、あろうが、なかろうが、それをその人の個性等と受け止められ、理解・共感される温かい社会・地域であり、人であって欲しいものです。
そうなるためにも、幼少時代から区別なく、健常者と障害者の共生が、ポイントになるのではないかと考えます。
近頃は認知症への理解も深まってきておりますが、まだ差別的な所もあるような気がします。
道端で座り込んでいるお年寄りがいれば、大丈夫ですか?と声がけできる社会・地域であって欲しい。
車椅子が動けなくなっているのを、見て見ぬふりをする世の中ではない事を願いたいです。
シャ乱Qのつんくさんの喉頭癌の闘病生活がドラマ化され、歳のせいか、涙が出続けてましたね😭
歌手・プロデューサーとして活躍していた人が、声帯を全摘し、声を失った事はホント苦しかった事であり、家族のサポートは並大抵なことではなかった事と思います。
全摘後も頑張られているつんくさん凄いです。
次回は、それを受けて思う事などを書かせて頂こうかと思います。👋👋
2026年8月10日(月)
もともとは、なんとなく癌の研究🧪がしたいなという気持ちと、兄が薬学部に行き、大学行くなら資格を取れるところに行きなさいと母親から言われたこともあり、医学部には成績が全然足りないため、高校卒業後は代々木ゼミナールに一浪して薬科大学、大学院修士課程と進みました。こんな事を言ってはなんですが、薬剤師になるつもりで薬科大学に行ったわけではありません。
その後は、ビール会社🍺の医薬事業本部臨床開発部に就職し、抗癌剤や造血幹細胞🪺を採取する機械の開発に携わりました。研究所から薬の候補になった薬物を人で試験し💉、そのデータを医師より回収して、医薬品として厚生労働省に認めてもらうために、データをとりまとめて申請を行います。その開発費用は100億円💰からと言われており、医薬品として認められない場合も多々あります。開発費用は、全部無駄になってしまいます。その会社で、短大を卒業し同じ医薬事業本部に就職した妻と出会い、結婚💍をしました。妻は薬剤師ではありません。どこでどうなるかわからないのが人生ですね。浪人していなければ、大学院行ってなかったら、出会ってなかったのかもしれませんね。
会社を立ち上げたいという思いから、ビール会社を辞め、できるものとしたら薬局かなと思い、2006年4月1日にスマイル薬局を開局しました。その前年2005年10月には、息子🤱が生まれました。環境の変化に妻は、苦労しただろうと思います。今から思うとよく開業したなと思います。若かったんでしょうね。その時は、変な自信があり上手くいくとしか思えなかったですね。でも、その変な自信が重要なんではと私は思います。
もともと初めから松永医院さんのそばで薬局をやらせて頂くとは、決まっておりませんでした。先生より、課題が出されました。候補は薬局を1店舗も持っていない私の他に、当時10店舗はある薬局との競合になり、出された課題は『医療法人優和会と地域医療、そして社会貢献』のタイトルで、作文で判断すると言われました。文字数は、作文用紙で2〜3枚程度で良いと。私は、作文用紙で10枚書きました。書き終わった瞬間、勝ったなと自信はありましたが、本当に1店舗も薬局を持っていない私にはしないのでは?と、不安もありました。結果は、吉田君の方が良いから決めたよ、と言われました。先生曰く、『私は千倉人だから千倉のために頑張る』という言葉が気に入ったと言われました。拾ってもらった恩を返すために、頑張るしかないなと思うと同時に、両親が商店を営み、地域の方からお金を頂き、大学、大学院と進み、薬剤師になれたことに恩返ししないといけないと再認識しました。
2026年7月6日(月)
前回から期間が空いてしまいましたが、その事は次回書かせて頂こうかと思います。
前回の続きで、私は商店の息子であったので、夏休み🌻にもなると、店が終わるのが夜8時になり、それまで当然夕飯🍚は出てきません。お腹すいたなあ?とお店のお菓子🍟を食べたりして、空腹を誤魔化していましたが、ふと考えていつしか、そうだ自分で作れば良いんだと思うようになり、料理もどきを小学校高学年になると家庭科が始まり、やるようになりました。お店の混み具合がひと段落すると、母親に夕飯を作ってくれと言われるようになり、下宿した時には料理するのが、あまり苦にはならなかったですね。子供は勝手に育つもんだなあと、今思います。やるしかなかったですからね!😅今は子供達には、グラタンもどきなど、現在作れるようになりました。
小学校の通知表では、三度のメシ🍚より体育が好きと担任の先生に書かれました。なんで人間って3回食事をするんだろう?その時間、遊んでたらもっと楽しいのに。美味しいものを少しずつ食べれば、それで充分だと思っていました。小、中、高校、大学と野球部に所属していましたが、もともとは兄のキャッチボール⚾️相手に無理やりに、つきあわされて始めました。初めてキャッチボールをした時は、グローブの出し方が悪く、ボールが溝落ちに当たり呼吸ができなかった思い出があります。嫌々ながらやっていた野球も、兄に負けないぞと、いつの頃からはプロ野球選手になるんだと夢を持つようになりました。町内地区対抗の小学生の野球大会では優勝投手になり、中学でも主将を務め県大会に出場したので、近所の人には野球が上手い小僧とは思われていたと思います。ただ、その夢は高校で打ち砕かれましたね😢高校時代の記憶は、今後どこかでお話しできればと思います。ただ私の母校の高校野球を一言で表すなら、『理不尽』ですかね?笑 その反面、薬科大学の野球部も一応、東都準硬式野球リーグに属した体育会の野球部でした。監督不在で自分らで練習メニュー等を考えた野球でしたので、伸び伸びとでき、嫌いになりかけた野球が好きでいられるようになりましたね。その頃は時代で、先輩に良くお酒を飲まされてましたね。寝坊して練習に行かないと、何故か目立つのですぐばれて良く怒られていました。授業受けるより、野球しにいくような生活でしたかね?笑
面白いことに、七浦薬局スマイルに来て頂いた患者さんで、会社のスタッフに、社長は野球⚾️で大学に行ったのか?と私に内緒で質問された方がいるそうです。流石に野球で薬科大大学には入れませんね!😄
私の育った千倉町七浦地区の平磯では、当時小学校1年から6年生が神社の空き地に集まって遊び、学年上下の連帯感が自然に出来上がってり、大人になった今でもその連帯感で仲良く付き合いが続いており、千倉の中でも仲の良い地域ではないかと思います。平磯の祭礼では、私は次男でしたが、三番叟の披露を行いました。当時は子供が多く、同級生に5、6人長男がいたので、通常慣例で長男が行うのが普通でした。今思えば、三番叟をやらせてもらえたのは運良くて、集中力がついて今の自分があるのかなと感謝しています。三番叟のお師匠さんからは、三番叟をやった人間は平磯の祭りを守っていきなさいと言われたことを覚えており、地域の大切さ、ありがたさを教わったのだと思います。
とりあえず、今回はここまで👋
2026年4月27日(月)
早いもので、おかげさまで会社設立、薬局を開局して、20周年を迎えることができました。色々な方のご縁で、これまでこれたこと、深く感謝申し上げます🙇
これを機に、赤ひげ大賞・功労賞🥸を受賞された松永平太先生に習い、薬局や日常の事を書かせて頂こうかと思い、一念発起で筆🖌️を取りました。なにせ国語が苦手なため、理系に進んだ私ですので、誤字脱字や表現がおかしいのでは?と思うかもしれませんが、暖かい目で見守って頂ければ幸いですので、予めご容赦の程、よろしくお願い致します🙇♂️
私は、母親の実家の南房総市白浜町乙浜で、お産婆さんだった祖母に取り上げられ、吉田商店の3人兄弟の2番目次男として、命を授かりました。兄と妹がいます。私の名前の由来は、父の兄、裕成(ひろしげ)叔父さんがタクシー🚕やバス事業🚌を千葉市で起業し、一代で300人の会社を作り上げたことから、裕をとり、兄の名前に也がついていたので、裕也(ひろや)と名付けられました。画数も縁起を担いで、親は考えてくれたそうです。そんな叔父さんには程遠いですが、名前負けしないようにと、心奥底では千倉人として地域に貢献しようと闘志を燃やしております🔥
親にはわがままを言って、七浦保育園、幼稚園、小学校、千倉中学校、安房高校、東京薬科大学、大学院修士課程🎓を修了させてもらいました。詐称はありませんので 笑! 安房地域の子供達は、高校卒業すれば、都会に出ていくのがお決まりのコースであり、私も早く東京に出たいと思っておりました。東京に出て1番嫌だったのは、人に注意しながら当たらないように歩くのが苦痛でしたね。門前仲町の叔母の家の近くにアパートをかり、食事やお風呂等お世話になりました。地下鉄東西線🚊に乗り、飯田橋、新宿と乗り換え、京王線で大学のある平山城址公園で降り、通っていましたが、人混みの新宿駅の乗り換えは嫌でしたね。
子供の頃は、当然のことながら、商店の子に生まれたので、小学校から帰宅し、遊んで帰ってからは毎日店番をやり、レジ打ちの毎日でした。夏休み、冬休みにもなれば、手伝いの時間が長くなり、休みなのかどうかわからないような気がしてました。親が商売している子は、手伝いばかりさせられるので、子供がかわいそうだから、私は絶対に商売なんかしないと、親や親戚の人に言っていました。そんな事を言っておきながら、事業を起こすとは、、、
店番をやっていて、お客さんで来てくれた近所のおじさん、おばさんが、今はお爺さん、お婆さんになって薬局に来て頂きます。昔からの知り合いの方や同級生の親御さんが来局した場合、薬💊が変わらなければ、地域の話や身の上話などに花が咲きます。そんな私もおじさんになり、もう少しでお爺さんですかね?そういえば、小学3、4年のころですかね?近所のおじさんが買い物に来てガソリンをくれと言われました。私の実家の前はガソリンスタンドだったので、最初はなんのことかわからなかったのですが、いつも飲みなれた『明け心』という一升瓶の日本酒🍶を欲しいという意味でした。それ以降は、来てくれた時は、ガソリンね、と言って『明け心』を渡してました。いつもお酒を飲んでいるせいか、そのおじさんはどうも肝臓の数値が悪く、今日平舘の病院に行ってきて、医者と喧嘩してきたと言っていたなあ、とふと思い出しました。そのドクターは前述医師の先代大先生という因果になります。
吉田商店(屋号は丹右衛門、正式は『たんうえもん』が通称『たえんどん』)の子だと七浦地区の方にはバレバレなので、悪いことをしたつもりはないですが、何かあれば親に言われるな、あるいは近所の方には見られているという感じがして、悪いことはできないなと思っておりました。店番をやっていたことが、今となっては血となり肉となり、DNA🧬に商売人魂が刻み込まれ、患者さんとの会話や接し方の原点になっているのだと感謝の念を持っております。汗水💦かいて精米🌾をやっている父、お店をみている母親の姿を直接みていたので、子供達3人は信頼をうらぎらない、親の期待に応えようとしたんでしょうね。地道にコツコツと真面目に仕事することを、感じ取っていたのだと思います。薬局で薬剤師をしているというよりは、私は商人なんだなあと、思う事もあります。薬剤師の仕事はしてますが、薬の話より患者さんとの会話で気持ちよく帰ってもらう事も大切だと思っています。
初回は、こんなところで👋

マザー牧場

母親と館山城にて